確かに、頭の天辺だけを残して剃りあげたモンゴル系の顔が五、六人見える。長いひげを生やし帽子を被ったのがロシア系か?
真ん中で筆を走らせているのはポーランド辺りの顔に見える。アジア系と東欧系半々くらいである。
実はこれらの人々が混淆して成立したのがコサックと言われる人々で、アジアの血がタップリ入っているのである。
その血はどこからというと、黒海やカスピ海の北方草原で遊牧生活をしていたタタール人、即ちチンギス・カンの長男のジョチが建国の祖となるキプチャク・カン国の末裔であった。
彼等の文化言語は被支配者のトルコ系になっていたが、栄光のモンゴルの子孫であることを誇りとしていた。
そこを背いて出た者と、東欧の没落貴族のたちが黒海の北の平原に集まって自由の民であるコサックという集団になった。
ロシア正教を奉じて、ロシア帝国に属し南方のイスラム国に立ち向かったので、コサックは帝国の一つの身分となった。
後ろに小さく見える人々の顔は、混淆が進んだ後の姿であろう。
次の絵が1891年の本作品である。中心部の構図はそれほど変わっていないが、絵が大きくなり、新たな人物が書き加えられた。しかし、モンゴル系の人物は背中を向けるか、全般に小さくなった。
そして、左に描き加えられた銃を構えたロシア軍の兵士の恰好はこの時代のものではないはずで、レーピンの生きていた時代のものだろう。
絵は完成と同時に皇帝に破格の値段で買い上げられたと言う。10年考えてこの構図にしたレーピンの思いを考えるのも面白い。
この絵の背景となった事件については触れないので、別に調べて頂きたい。