チンギス・カンとその友人たち



 
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 チンギス・カンの前半生  Chinggis Khan's first half life

 

  その1 テムジン誕生す

イェスゲイは、他人の嫁だったホエルンを強奪して自分の嫁にします。そしてイェスゲイが戦いに出て、 敵の大将テムジン・ウゲを捕えて帰って来た時に息子が生まれます。それを記念して子にテムジンと名付けました。 でも、日本人は不思議に思います、「負けた将軍の名を付けるなんて、縁起の悪い」。なぜそんな名を付けたのでしょうか? それ以上に、イェスゲイがホエルンを奪った行動は、草原の掟に反する犯罪でした。にもかかわらず、しばらくして 彼はモンゴル軍の指導者にもなります? そして、彼の運命が決まる要因にもなりました。その理由を考えて見ます。
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  その2 父の死

テムジン9歳の時、父イェスゲイはテムジンの嫁探しに出かけます。そしてデイ・セチェンの娘ボルテに決め、 テムジンを婿として置いて一人で帰路に着きます。その途中のチェクチェル山の麓で敵部族であるタタルの宴会に出会って立ち寄ります。 出された飲み物に毒を入れられイェスゲイは3日後亡くなります。その行程を考察すると、今まで定説のなかったチェクチェル山が 思いがけない所にあるのが判明しました。 その翌春、父を亡くした一家は部族の多くから見捨てられます。そこからテムジン一家の苦労が始まるのですが、 元朝秘史の内容は錯綜していて、テムジンが成人するまでの事が良く分かりません。 これを、母ホエルンの心の動きから再構成して、不明点を考察しました。 また、成人したテムジンとタイチュート氏族との闘争は有名ですが、理由がはっきりしていませんでした。 集史の記述を参考に、父イェスゲイの時代から始まるその問題を明らかにしました。
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  その3 結婚

テムジンは15歳となり成人したので、故郷に帰ります。だが、父と不和であったタイチュート氏族に襲われて捕らえられます。 なんとかその虎口を脱したテムジンはココ・ノールという新たな場所で生活を再開させます。貧しい暮らしながらも18歳になったテムジンは 父が決めていた許嫁を妻にします。豊かなその父の援助を受けて、家の再興を図ろうとしますが、その矢先、敵部族のメルキトに妻を奪われます。 この危機を、政治力を使って切り抜け、妻の奪還に成功します。長男も無事に生まれました。 難問を見事に解決したテムジンをモンゴル部族民は驚きの目で見たことでしょう。 弟たちも屈強な青年になりました。最早、タイチュートも襲うことが出来なくなったでしょう。 周りの部民の支援も期待できる故郷に再び帰る時が来ました。 激動の青年期を年次を追いながら考えて見ました。
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  その4 ジャムカとの戦い

テムジンの前半生で、ジャムカと戦った13翼の戦いは史書に特筆されています。テムジンが勝ったという資料もあり、 負けたという資料もあります。だが、その戦いが、3万人もの人数を動員したものだったとはとても思えません。 なぜなら、当時モンゴル族はジョチというカンに治められており、テムジンやジャムカはその配下に過ぎなかったからです。 史書からは分からない戦いの発生年や、なぜ13という数字が出てきたのかも考察してみました。
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  その5 ウルジャ河の戦い

35歳になったテムジンは、盛大な宴を開きました。宴にいちゃもんを付ける者達もいましたが、 モンゴル部族の半分を占めるキヤト氏族からついにカンに推戴されたのです。 亡き夫イェスゲイのかなえられなかった夢を、息子で果たしたホエルンはどれほどうれしかったでしょう。 その宴が終わった頃、金軍が逃亡したタタルを追ってテムジンの領土間近に迫ってきました。 テムジンはケレイトのトオリル・カンと共に彼らを討ちます。金軍の進路を考えながら、 この戦いの状況を考えてみました。
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  その6 テムジンとオン・カン

テムジンはモンゴル部族のカンとなり、金軍と協力してタタルを討った。 この1196年の戦いから彼の軍事活動を史書は記述し始める。だが、その前の明らかな記述は無い。 だが、各部族のせめぎ合う当時の草原世界において、軍事行動を何もせずにカンになったとはとても信じられない。 軍事の成果があってのカン就任だったはずだ。史書に埋もれていた、カンとなる前のテムジンの活動をオン・カンとの関係の中で明らかにしていく。 不明であった地名、グセウル湖、テルストの位置を提案する。
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  その7 ナイマン部族とタイチュート氏族への攻撃

テムジンとオン・カンは、部族内の問題を解決し、他部族攻撃を開始する。金軍の要望する、タタル征討への前段階として、 ナイマンのブイルク・カンを攻め、次いでモンゴル族だが、テムジンと対立していたタイチュート氏族を攻めて併呑する。 それを脅威に思ったコンギラト等の部族は、敗残のモンゴル諸氏族も加えて立ち向かってきた。そこまでの経過を考察し明らかにする。
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  その8 タタル部族を殲滅する

テムジンとオン・カンは、ブイル湖近辺のタタル部族を破った。その後、オン・カンは直ぐに自領を目指して帰ったが、 テムジンはその地に残って、何事かやっていた。
続いて翌年、ダラン・ネムルゲスのタタル部族を破り、 その又翌年の春、その南にいるタタル部族も制圧した。普通、遊牧民は馬が痩せた冬明けに戦いをしない。 その習慣を破ってまでタタルを制圧しなければならなかった理由とは何であろうか? 
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  その9 オン・カンを破る

テムジンとオン・カンは他の遊牧部族をほぼ征討し、残るはタヤン・カンのナイマン部族のみとなった。 その時、今まで共同で戦ってきたオン・カンとの戦いが始まった。青年時代からの敵、ジャムカの企みが原因だった。 テムジンはオン・カンの攻撃を受け、数ヶ月に及ぶ逃亡生活を余儀なくされる。だが、それを克服して逆襲に転じ、 ついにはケレイト部族を滅ぼし、吸収合併する。ここに、テムジンがチンギス・カンと呼ばれるようになる道が開けた。
史書には彼の行動の参考になる地名は多いが、未だ明確になっていない。ここでは、テムジンが移動した経路全てを地図で示した。
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  その10 チンギス・カン誕生

ケレイト部族を吸収したテムジンに、ナイマン部族のタヤン・カンは危機を覚え、総力を挙げて向かってきた。ナクゥ崖の地で 北方高原の覇権を掛けた戦いにテムジンは勝利した。不明であった戦場の位置を提示する。 直ちにメルキト領も併呑した。大王となったテムジンは、手垢のついたグル・カンの称号を捨て、新たに創られたチンギス・カンの称号を名乗ることになった。 一般名称のはずのチンギス・カンだったが、その後の偉大な業績で固有名となる。 西夏攻撃と、ブイルク・カンのナイマン攻撃との関連性についても述べる。これで前半生の部は終りとする。
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