チンギス・カンとその友人たち



 
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  ジャムカ Jamukha

モンゴル史の研究のために「金朝史の研究」という本を読んでいました。 障葛という賊が金国の国境付近に侵入したので、撫州、今の張家口市張北県に赴任していた完顔匡という将軍が 撃退したという記事がありました。 この本を書かれた外山軍治先生は、障葛を遊牧民族の一派であろうと推測しておられましたが正体は不明としておられました。 この下りを何回目かに読んでいた時です。中国語で発音すればどうなるのかと思いました。 私は仕事で三年間中国に居て中国語の初歩を知っていましたので、章という姓の発音がzhangであることを知っていました。 障葛の障も同じような発音だろうと思い、葛は日本語ではカツですが、多分二声のgaと推測したのです。 そして、zhang1ga2と口に出した時ゾクッと来ました。これはジャムカだと直観しました。 「お前こんなところにいたのか」と、古い友人に出会ったような気持ちでした。 更に原典を当たると、その事件があった年が微妙でした。1196年の冬の事ではないかと思われたからです。 まだチンギス・カンにはなっていないテムジンが、ケレイト部族のカンであるトオリルと共同して、 金国の完顔襄という将軍に追われたタタル部族の一派をウルジャ河に討った年がその年の夏でした。 テムジンはその功績で金国から称号をもらい、金国に協力する立場になります。ジャムカの行動はそれから半年ほど後です。 極めて政治的メッセージが強いものと思わざるをえませんでした。その考えを大学の先生に送り、 色々手伝ってもらって論考が出来ました。大学の先生の意見が入っている部分もありますが、 jamukha→jamkha→jangkaと音韻変化したという論の骨子は私の考えです。 「クイテンの戦い」のページに添付した地図を参照すると、それぞれがどのような行動をしたかを想像できます。
松田孝一編集「13−14世紀モンゴル史研究」第2号(科研費(課題番号26284112)助成による)に掲載されました。 論考(pdf)を読む
 

  長春真人の旅の解明 Elcidation of the route of "Travels to the west of Qiu Changchun"

征西中のチンギス・カンは体力の衰えを強く感じたようです。不老不死の術を知っていると思われた道教の長老を招きます。 だが、誰も出かけようとしません。只一人、長春真人こと丘処機が応じて西域に赴きます。その時既に73歳。 現代人が車で行くにもためらうような距離を、牛車と騎馬で一年以上かかってたどり着き、チンギス・カンに会って講話をします。 不明点の多かったその全行程を追跡し、二人が最初に会ったのは現在のアフガニスタンのバグラーンであることを明らかにしました。 経路の解明にグーグルマップが絶大な威力を発揮しました。想像するしかない行程はありますが、5年掛けて完全解明できました。 先に進む
 

  クズ・オルド(大石林牙、バラサグン)の位置

西遼の首府であったクズ・オルドはモンゴルの西域制覇後しだいに寂れて、現在ではその地が不明である。 キルギス国のトクマク近郊にあるブラナ村に立つ塔がその西郊であった、との伝承が残るのみである。 当時の記録としては、先に述べた長春真人一行の記録に、その地を訪れた事が記されている。 上の論考でその位置を明らかにしたが、ここで更に詳しく述べる。 先に進む
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