チンギス・カンとその友人たち



 
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 はじめに



チンギス・カンの足跡には分からないことが多くあります。その生年も一応1162年とされているだけで諸説があります。 史書にかなり詳しく書かれるようになって来ても、記述が簡単過ぎたり史書の間で一致していなかったりして謎が多いのです。これらの問題を、 彼の友人になったつもりで考えて見ました。

最新 2020/11/23 チンギス・カンの前半生 その10 チンギス・カンの誕生 をアップ
                
 

  チンギス・カンの前半生 The first half life of Chinggis Qan

1206年、テムジンは漠北に住む遊牧部族を平定して、チンギス・カンの称号で呼ばれるようになります。一応44歳の時とされています。 しかし、彼の事績が詳しくなるのはその10年前ほどからに過ぎず、それ以前がどのようであったのか、資料は多くを語っていません。 各史書を比較し、新たな観点から見ると多くの事実が分かってきました。その誕生とテムジンと言う名に秘められた意味から、大人になってオン・カンと組み他部族制圧を始めるまでの、 一番曖昧模糊としている時期をできるだけ深く理解しようと努力して見ました。 先に進む
 

  モンゴル史の地名 Place names in The History Books of the Mongols.

モンゴル史に出て来る地名にはよく分からないのが多くあります。 いくつかの地名の位置を提案します。

チェクチェル山とチクルク山の位置、「エデル、アルタイの合流点」の位置、 キジル・バシの地、アブジアコデゲリ。
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  ジャムカ Jamukha

チンギス・カンの幼いころの友人で、長じては敵となった人物。彼の前半生はチンギス・カン以上に分かりません。1199年のことと思われるナイマンのブイルク・カン攻撃に名が出て来ますが、 それ以前の行動の確かな記録はないとされてきました。しかし、その数年前、金史に障葛と書かれていた人物が彼ではないかと推測しました。 先に進む
 

  クイテンの戦い The Battle of Khuiten

モンゴル部族のカンであるテムジンと、草原随一の大部族ケレイトのカン、トオリル(オン・カンの名で有名)は協力して他部族への攻撃を行っていました。 負けていたナイマンとメルキト部族は同盟を組み、上述のジャムカも加わって反攻してきました。双方がクイテンで衝突します。しかし、その戦場がどこであったのか 四つある史書を読んでもよく分かりません。現在、「集史」によって大興安嶺山脈の付近であったとするのが学会の趨勢です。しかし、私には元史の記述が正しいとしか考えられませんでした。 そして、ロシアに近い現在のダルハンが戦場であったと結論しました。 先に進む
 

  長春真人の旅 The Travels of Changchunzhenren

征西中のチンギス・カンは体力の衰えを強く感じたようです。不老不死の術を知っていると思われた道教の長老を招きます。だが、誰も出かけようとしません。只一人、長春真人こと丘処機が応じて西域に赴きます。 その時既に73歳。現代人が車で行くにもためらうような距離を、牛車と騎馬で一年以上かかってたどり着き、チンギス・カンに会って講話をします。不明点の多かったその全行程を追跡し、 二人が最初に会ったのは現在のアフガニスタンのバグラーンであることを明らかにしました。 経路の解明にグーグルマップが絶大な威力を発揮しました。 先に進む
 

  コラム

コラム1 コサック Cossack
  コサックとはどういう人たちなのだろう。有名なイリヤ・レーピンの絵画で考えて見た。先に進む
コラム2 ウルク・タク
  地名、「キジル・バシの地」の中で、大きな山を意味するウルク・タクの位置を考証している途中で思いつきました。 日本にも大きな山という山がありますが、なぜか変な読み方をします。その理由を考えてみました。 先に進む
コラム 3 朝鮮の意味
  朝鮮は、”朝が鮮やか”の意味だ、としている資料が多いようですが、名付け親の漢土では決してそういう意味ではありません。 ネットやyoutubeで東アジア史を多く述べている識者の中にも、”朝が鮮やか”と言う認識しかない人がいるので、 中国人は決してそう言っていない、ということを強調しておくために、モンゴルとは外れますが触れておきます。 先に進む
 
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